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昨日のことのように鮮明に思い出すことが出来ます。

当時私は神戸市垂水区に住み、明石の職場に通っていました。

揺れが始まる前にごーっという音がしたこと

今まで感じたことが無い揺れがそれに続き

階下で食器の割れる音が派手にしたこと



それに続き停電、断水、ガスも止まり

真っ暗な中、懐中電灯で1階に下りて怪我をしても・・

と、もう一回寝ようかと思っても眠れるわけもなく。

ラジオではまだ奈良県でけが人が数人なんて言っているし

どうなってるんだろう?



最初は電話も通じて

安否確認も容易に出来ましたがそのうち電話も通じなくなりました。

家族の無事を確認したのち

ラジオをつけっぱなしにしているといろいろなことが次第にわかってきました。



地震当日にはまず電気が復旧しテレビを見ることが出来ましたが

信じられない光景がそこにはありました。

そして死亡者のリストの中に親戚の名前、知人の名前がありました。

まだ安否を確認できていない友人の無事を祈るのみでした。

夜に友人から
電話があり家が全壊し避難所にいるとのことでした。

どういう言葉をかけたか記憶がありません。

会いに行くにも交通手段がありません。



翌日には電話がかなり通じるようになり

あちこちから電話が入りました。

長い間年賀状でしか連絡を取ってない友人たちが電話をくれました。

これは本当にうれしかったです。

声を聞くだけで、自分のことを心配してくれている人がいるだけで

とても元気が出ました。



数日目に職場から救援活動で長田の避難所に入りました。

明石から長田まで行きはパトカー先導で2号線を走り約40分

そこにはとても正視できない光景が広がっていました。

帰りはパトカー先導はありませんでしたので3時間かかりました。



水道は約1週間

ガスは2ヶ月以上復旧までにかかりました。

職場では水が出たので毎日職場から20Lの水を持ち帰りました。

(腰を痛めました)

ポリタンクもそのころは家に常備していなくて

検査室の純水容器をもらいました。

シャワーを使ったのは震災後1週間以上たってからでした。

職場の友人が寮のシャワーを使わせてくれました。

その間着替えもしなかったけれども全く気になりませんでした。



日に日に死亡者発表数が増え

被害状況も深刻であることが伝わってきました。

何よりも命を落とされた方、家族を亡くされた方

どう声をかけてよいかわかりません。



1年以上たってから長田で亡くなった知人の為にお線香をあげに行きました。

家が全壊して生き埋めになり火が回って逃げられなかったとのことでした。

知人の友人に案内してもらって

“この場所で”と考えただけで、その苦しみを考えただけで

立っている事が精一杯でした。


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No title
17日夕刻教会の震災追悼礼拝に参加しました。町並みは日々復興し、人々も何事も無かったかのように行きかう今日ですが、被害にあわれた方、特に親しい方を失った方々の傷は癒えるはずも無く、人々が忘れ去っていくこと、それ自体が深く新しい傷となって二重にも三重にも苦しんでいらっしゃるのだなと痛感しました。その心の悲しみ苦しみに一個人としての自分が隣人としてさりげなく寄り添うことの重要さに気づきながらも思いやることの難しさになすすべも無く過ごすもどかしさに心が痛みました。私はほんとに無力だわ。
2007/01/22(月) 22:25 | URL | 同級生その1 #79D/WHSg[ 編集]
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